『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』デヴィッド・フィンチャー
観終わってから、あっフィンチャーだった!って思い出した。
まだ観てないブラピとフィンチャーの組み合わせ『セブン』も近いうちに観たいなと思ってる。
3時間くらいある映画だったけどロードオブザリング的な疲れ方はしなかった。
CG技術が一体どうなってるのか分からない所が多くて、それが本当すごい。
お話自体は、もう出だしや設定からけっこうつらいし、結末も想像通り分かりきってつらいし、映画中も割と終始つらいので、わざとらしいしあわせなシーンでウッとなってしまう。
フィンチャーのフィンチャー的な(?)刺さりまくってくる分かりやすくトンがったメッセージ、(とは言ってもやっぱり強いセリフは多いけれど)がある、とゆうよりは、
観終わった人が後で、映画の中にそれぞれに散りばめたところから好きなのを拾って読んでもいいよ、に近い気がする。
物語化して保存すること、で何か一つ踏ん切りがつくようなこととか、キャラクタが分かりやすく意味付けられてはいるけど、本当はどんな私たちも一点のどこかでしかすれ違えないようなこととか。
ゴーン・ガールやファイトクラブもそうだけど、(この2つが特に好き)
映画の視点みたいなことをフィンチャーの映画でよく考える。
例えば登場人物の視点だったとしても、その登場人物の視点からわざとすこしズラして撮ってあるというか、(現在の視点と違う時間軸の独白が入るとか、一般的なカメラ視点とその一人称の視点がダブる時間が少し長めに撮られるとか) ギリギリサブリミナル超えるあたりが常にモヤモヤ何かを言ってくる。
本来映画のレンズって、あくまでも透明に、観る人に意識させないように出来てると思うんだけど、それをちょっと違和感あるくらいの存在感にさせられてるせいで、
登場人物に共感する、しない、に飲み込まれる前に(もしくはあっさり通り越して)登場人物に何か言われているような気になったり、アレ、物語において今の私のこの視点は何者なんだろう、(物語にいないって分かってはいるのに考えちゃう)って要所要所で自分の存在が浮き上がってしまうようになってる。それくらい没頭させられてるとも言えるけど、それともまた違う引き剥がされた感じ。のめり込まされて放り投げられるような。
君は誰で何してるの?って
『ダージリン急行』 ウェス・アンダーソン
ウェスアンダーソンの作品はどんどん新作から遡ってて、(グランドブダペストホテル、ムーンライズキングダム) ウェスアンダーソンルールが洗練されて行く前を拾って行くような体験をしてる。
色彩の組み合わせと配置が美しいこと、小物にこだわること(それがキャラクタを表すこと)なんかはヤッパ健在で、並びのアンバランスとおかしい感じ(本人たちは真面目)な平和シュールとギリギリ間延びしない長回しとか、笑いそうで笑い出せないくすぐったい感じ、そんな絶妙なところが好きですよー!!とゆうのはダージリン急行もそう。
操作され尽くしてる記号や対称性に凝ってないからこそ出来上がってる要素もあって、ウェスアンダーソンがウェスアンダーソンしていく過程を観れた感じで嬉しかった。(さらに作品を遡ったらまたこれがはじまりだ!って思う気もする)
ぶった切られてる全く別の時間と場面を壁を作って無理やり跨いでいくやり方も、本当はかなりめちゃくちゃ強引なのに、絵本のページをめくるようなゆるくて軽やかなエネルギーですんなり映像が読めるようにしてるんだから、そういう脳のスイッチを観客に知らないうちに引っ付けてるウェスアンダーソンはすてき。
次はザロイヤルテネンバウムズみたいな、と思ってる。