acoogre

感想と日記

日本語と英語とその思考

 

映画『メッセージ』で「文法は思考方法である」という仮説が参考文献として、また物語自体の読む視点として出てきて、そのことについて改めて考えていた。言葉はそれ自体が歴史であると白川静も書いていたけど、英語文化圏のひとと日本語文化圏の人ではやっぱり作品鑑賞態度などが違う。英語を話す人は英語の世界の考え方でモノを見ているし、日本語の人もそう。

というようなことを、日本人で論じてる人はいないだろうかと探してたら、比較日本語論/柳父章というのに出会った。まだ読み終わってない。タイトルは堅苦しいけれど、とてもフランクでやさしくて読みやすい。

英語を日本語訳するひとの書いた、という時点でおもしろいんだけど、そういう翻訳のときに起きる問題なんかを中心に、リアルに繊細に丁寧に、英語と日本語における文法と思考法の違いはなにかというお話に触れている。

途中に「i am hot.(you are hot.)」という話が出てきて、小学生の頃のことをふと思い出した。

要は日本人が「あつい(さむい、さみしい、すずしい、かなしい、たのしい)」などというとき、そこにワタシやキミという説明はいらない。というのは、それは絶対に発話者の感情や体験だからだ、ということなのだけど(英語は逆。iかyouが必要)

小学生の時、帰国子女の子がいて、そのこがノートに「i love you,and you love me.」と書いていた、ということがあった。

私はその時それを見て、「i love youはわかるけどyou love meは言わないよ、おかしいよ」みたいなことを言った。当時は説明できなかったけど、まさにこれだと思った。(そのこには英語では言うし普通なんだよ、と言われて、そういうもんか、と思った、とこまで覚えてる。)

いまはたいして違和感を覚えないから英語の考え方が少しは私の中にも染みてきているということなんだろうか。

感情や状態はあくまでも「私自身」が体験するものであって、「あなた」に起きていることを私は体験できないし、私の体験した何かを、あなたが体験したように語らせるのも変だ、みたいなことを言えたらよかったけど、当時はうまく言えなかったな。